それから、こちらでお店を開業されたんですね。
永子さん:そうです。1978年(昭和53年)、お父さんが37歳で私が35歳。この子が(和典さん)10歳の時でした。
もちろん、鰻は茂田さんのところで仕入れました。愛知や静岡で採れた国産の活鰻、創業当初から質にこだわって提供しています。
智男さん:今もそうだけど、当時から鰻は高級品だった。滅多に食べられるもんじゃないから、兄貴からは「鰻なんてやめろ」って猛反対されてね。
永子さん:信用金庫からやっとお金を借りて、なんとか2人でスタートさせました。とにかくお金がないから、やれるところは全部自分たちでやったの。メニューも手書きして……。でも偉いのはね、お店を開いてすぐ、お父さんお習字も習いに行ったんですよ。この暖簾はお父さんが書いたんです。
すごい!お上手ですね。
智男さん:でたらめだよ。
永子さん:何でも自分でやらないと気が済まない性格だから。それとね、お父さんは小さい時から苦労が多かった人なんです。
智男さん:俺が4歳の時におふくろが亡くなった。うちは兄弟が多かったから大変だっんだ。
永子さん:「俺は今まで習い事なんか何にもしてこなかった」って。そんな思いもあってお習字を習いたかったみたいですよ。勉強熱心な人でもあるから。
私のことも「母ちゃん、母ちゃん」って、実のお母さんを呼ぶように言うの(笑)。でもね、本当の苦労を知っているから強いですよ、この人は。茂田さんにも「宮川さんって本当に愚痴をこぼさない人ですね」って言われましたもの。
お父さん、勉強熱心で努力家なんですね。
智男さん:いい加減さ。
開店後、お店はどんな感じだったのですか?
永子さん:お客さんを入れる用意はしていたけど、最初は出前しかやりませんでした。飲食店の経営なんて2人とも何も分からない状態で始めましたから。配達場所は会社とか、男の人が集まる場所が多かったですね。うちの鰻を食べた人が「あそこの鰻おいしいよ」って、周りの人に話してくれて。少しずつ口コミが広がっていきました。
智男さん:多い時は一回の配達で150人分の鰻を出前したこともある。
永子さん:でも、軌道に乗るまでは10年かかりました。2人とも表に出るのが苦手だったから、宣伝広告も一切やりませんでしたからね。
智男さん:鰻には滋養強壮があるっていう話も広まって、近所のスーパーから土用の丑の日に店頭で鰻を焼いてくれないかって何回も頼まれたよ。でも一回も引き受けなかった。
永子さん:外に出てまで焼くもんじゃないって。お店に来た人を大事にしろってことなんですよね。そのうち、お店でも鰻の提供を始めたんですが、注文が入ってから鰻を割いて本焼きしてって、提供までに40分かかる。だから私が入口に立って、入ってきたお客様にまず聞くんです。「40分かかりますけど大丈夫ですか」って。「ダメだ」って言って出ていく人も何人もいました。でも、冷凍ではなく本物を出していますっていう自負もありましたから、そこは曲げませんでした。
智男さん:「でもせっかく来てくれたのに、そんなに待たせたら可哀そうだ」って言うんで、白焼きを始めた。
永子さん:今は電話予約をもらっていますから、そこまでお待たせすることはありません。
それからね、10人のうち1人は鰻が苦手な人もいるってことが分かったの。それで、私が天ぷらを揚げ始めたんですよ。天ぷらは卵の溶き具合で決まりますからね。そういうコツも全部教えて、今は息子が上手に揚げてくれていますよ。
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