趣味を楽しみながらも精力的に働くお祖父様やお父様を近くで見てきた友輔さん。
幼少期はどんなお子さんでしたか?
友輔さん:粘土細工などものづくりが好きな子供でした。得意科目は図画工作で、動物や生き物も好きでしたね。自宅と店は扉一枚で繋がっていたので、子供の頃から作業場にいることの方が多かった。「これ食べていい?」なんて言いながら、ちょこちょこつまみ食いもさせてもらいました(笑)。
いつ頃から店を継ぐということを意識し始めましたか?
友輔さん:両親というより周囲から「和菓子屋さんを継ぐんでしょう?」と言われることが多かったので、それが自然のことだと捉えてきました。ほかの仕事に就くことを考えたこともありません。子供の頃書いた七夕の短冊に「たわらやの5代目になります」と書いた記憶があって、そういう意味では使命感をずっと感じていたのかもしれませんね。
その後、地元の高校を卒業して都内の製菓学校に通われたそうですね。
友輔さん:「高崎商業高等学校」を卒業後、高田馬場にある「東京製菓学校」へ進みました。実習メインの学校だったので、理屈うんぬんを聞いているより手を動かしている方が学べると思ったんです。現役の職人さんから講義を受けることも多かったので、実技面の習得に役立ちました。お菓子に合う色合いやデザインなど理論的な分野でも深く学べたと思います。卒業後にも参加できる講習会があって、機会を見つけては参加するようにしています。都内に出た際は、なるべく色んな店を回って研究したりもしていますよ。
就職先も都内の和菓子屋さんだったそうですが、こちらはどんな理由からですか?
友輔さん:練馬にある「和菓子 大吾」というお店に就職しました。就職先が決まらず焦っていたのですが、大吾で働いている卒業生から話を聞く機会があり、雰囲気の良さを感じたんです。就職先を決めるにあたっては母に何度もせっつかれましたが、自分の意志で大吾に決めた。この決断は、今まで人の意見に流されがちだった自分にとって、1つのターニングポイントになったような気がします。
大吾での修業はどんな日々でしたか?
友輔さん:とても充実した日々でした。社長も同校の卒業生で、話しやすく面倒見がいい。私は「東和会」という菓子協会に所属していて、そこで毎月行われている品評会にも参加させてもらいました。修行中にも関わらず、社長が「積極的に参加しなさい」と背中を押してくださったんです。制作する際も、「しっかりやるなら店の材料を使っていい」と言ってくださり、本当にありがたかったですね。品評会への出品は3年ほどで辞めてしまったのですが、ほかの人の作品が見られる機会でもあり、大きな刺激を受けました。
その後、もともとの契約だった5年が過ぎ、母も体調を崩していたことから、25歳の時に帰郷しました。
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